ミエナイチカラ

　町外れにある小さな教会。
　その裏にある墓所に、一人の男が訪れていた。
　全身包帯だらけの男は一つの墓の前で立ち止まる。
　地面に埋め込まれた小さな墓石。そこに刻まれた名は、最後の最期にようやく知ることができた、「彼」の本名。そして、その上にたたずむ、人影。
「それ」は、男が目の前に立つと閉じていた瞼をうっすらとあけた。

「よう……」

　男が手に持っていた花束を墓石の上に置く。前回来たときの花がまだ萎れずにその隣にあった。

　――よぉ……――

「それ」が、にっこりと微笑む。
　男には「それ」が見えていないのか、墓石――「それ」の足下を見つめたまま身じろぎ一つしない。
　男はいつもと同じ、それでいてどこか泣き出してしまいそうな、複雑な笑みを浮かべたまま、ただ墓を見つめている。

　――なに情けない顔してんだよ……――

「それ」が男の顔に苦笑を漏らし、彼の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ。
　傷だらけの男の身体を見、悲しそうに眉をひそめる。
　男の心が、身体以上に傷ついていることもわかっていた。ただ、「それ」には男の傷を癒す術はない。開いてしまった穴を埋めることができない。触れることすらかなわないのだ。抱きしめたくても、腕は男の身体をすり抜けてしまう。それが哀しくて、辛い。
「それ」はぽつぽつと涙をこぼし、触れられない腕で男の頭を抱きしめる。

　――哀しまないで。俺はここにいるから……側に、いるから……――

　慰めの声も、抱きしめる腕も、男には聞こえないし見ることができない。
　男の目に「それ」の姿は映らない。
　男が「それ」に救われることはない。
　男が救われなければ、「それ」はこの場から――自分の身体から離れることができない。
　男の側に行くことができない――。
「それ」は為す術もなく、ただ必死に男を抱きしめながら涙をこぼす。
　男が泣かない分「それ」が涙を流しているようだった。

　最愛の存在を失ってから、男はがむしゃらに進み続けてきた。
　周りを見ることも過去を振り返ることも先を見据えることも恐ろしくて、何かに取り憑かれたように戦場へ赴き戦いつづけていた。戦っているときだけ、辛さを忘れることができた。
　それでも、彼の存在を消すことはできない。
　一人になると、必ず思い出す。
　時間が空くと、彼の眠るこの場所に足を運び、何時間もこうしてただ座り込んで『彼』を見ている。
　彼が自分の傍らにいないことがいまだ信じられないのだ。
　そして、彼がいないことがこんなにも自分に影響を与える事実に、その存在の大きさを再確認してしまう。今更だというのに。
　男は握った拳を眉間に押し当てうつむいた。
　彼がいなくなり、ずっと男の体の中を風が吹いている。いっそのこと闇に包まれているのなら彼を感じることができるのに――
　

「大切な人なの？」

　ふいに甲高い子供の声がし、男は顔を上げた。いつの間に寄ってきていたのか、六、七歳の少女が人形を抱きしめ立っていた。

「もう一時間もここにいるわよね、おじさん。それに昨日も来てたし」

　おそらく教会経営の孤児院の子供なのだろう。

「おじさん、天使のお知り合いなの？」

　少女は無邪気な表情で小首を傾げ男の顔を覗き込んでくる。

「…天使……」
「おじさんにも見えないの？　ほら、そこにいるのに」

　少女が指さしたのは男の背後。愛しい者の眠る場所。
　その手の動きにつられて振り返った瞬間。
　目の前に彼がいた。満面の笑みを浮かべて。
　いつものように、細い両腕を差しだし抱きついてくる。
　触れるだけのキス。
　柔らかな感触が口唇に触れ、頬に触れ、眼の上を走る傷跡に触れ、消えた。

「せ……！」

　抱きしめようとした男の腕が空を掴む。
　姿が見えたのは一瞬だけだった。
　――消えた…？
　いや――
　身体の内側が暖かい。
　

　ぽつ、と石畳の上にこぼれたそれは、彼が死んで初めて流れた男の涙だった。

　もう風は吹いていない。
　暖かな闇が胸の穴をふさいでくれたから――